配偶者がいようが、子供がいようが、1週間でたった1時間でいい。ひとりになる時間って大切だと思います。
散歩でもカフェでも何でもいい、ひとりになって自分と向き合う時間。そんな時間はとても貴重なものです。
日々の雑踏の中で生きていると、自分の中にいろんなものが溜まってしまい、思考が混乱することがある。
そして、日常の中で自分の大切な部分を見失ってしまう。
そんな自分を客観的に見つめリセットする。
僕のオススメは河原にでも座って、自然の中に1人で浸かること。
ナチュラルパワーは、混乱した思考をクリーンにしてくれる手助けをしてくれます。
今は激動の時代。
世の中が大きく動いていて、自分では気がつかなくても、社会は変わり誰もがその影響を受けている。
それを的確にとらえ判断することはとても難しい。
だったら、いっそ流れに身を委ねてみよう。
自分の人生を信じ流れに委ねること。
川の流れに逆らって、一生懸命登り続けるよりも、いっそ川の流れに身を委ねてしまう。
時に大きな石が迫ってくるかもしれない。
その石にしがみつこうとすると苦しいだけ。
水はそれにも逆らわず、流れ落ちていく。
そしてやがて、大きな海に辿り着くのです。
そこには今まで見えなかった、何万倍も大きな世界が拡がっている。
そんなふうに生きてみようと思うのです。
ひとり時間
名字が変わりました
また人生が大きく動いてきました。
アセンションが始まるという2012年という年、そして4月で40歳になる年、やはりいろんな区切りになる年なのかもしれません。
どんなことがあっても、自分を信じて生きていく。その覚悟があれば、何があっても恐れることはありません。
それにしても、ふり返ってみると、僕の人生はジェットコースターみたいな人生だなって思います(^^;
ところで、昨年11月に入籍してから名字が変わりました。
「広野」→「廣野」です。
もちろんお婿さんになったわけではありません(笑)
本来の僕の性は、戸籍では「廣野」なのですが、書いたり説明したりするのが面倒だという単純な理由で、新漢字の「広」を使ってきました。
どっちを使っても問題はないみたいですが、免許証なんかは、もちろん戸籍の廣野です。
この「廣」という時を説明するのが難しい。まだれの中にあるのは「黄」じゃありません。
廣
入籍を機に、妻になってくれた人は名字が変わったわけですが、それって人生では一大事ですよね。だって、長年慣れ親しんできた自分の名字が別のものになるんですから。うれしい反面、違和感も大きいのではないかと思います。
だったら、僕もその違和感を少しでも共有してみようってことで、人生の大きな節目となる入籍を機に広野から廣野に日常で使う字を変えてみたってわけです。
「廣野聡」
画数が多くなって、自分の名前を書くのが大変ですが、見た目のバランスは悪くないし、なんか重みもあって気に入ってます。
とうことで、名字の字が変わっても、引き続きよろしくお願いしま(^-^)ノ
い、いまさらですが。。。
今更ですが。。。新年あけましておめでとうございます!
予想に反して年末ジャンボが外れたため、ショックから立ち直れずになかなかブログも書けなかった廣野です(^^;
いよいよ2012年が始まりましたね、様々な新年行事も一段落し、私的にはやっと本格始動な感じです。
このブログは、東京へ向かう新幹線の中で書いています。そんな時間でも使わなければブログを更新する暇もないほど多忙な日々でしたが、やっと落ち着いてきました。
昨年末をもって地元の某青年団体の理事長職も終わったので、今年からは東京に滞在する時間が多くなっていくと思います。
今年のテーマは「やりたいことだけを一緒にやりたい人とやる」です(^-^)ノ
やっと自分の中でも様々なことに踏ん切りがつき、いろんな足かせも無くなったので、自由奔放な廣野本来のスタイルに戻り、一緒に人生を楽しみたい人たちとだけ時間を共有していきたいと思います。
「そんなワガママが社会で許されるか!」と言われそうですが、言いたい人はどうぞ好きなだけ陰口でもなんでもたたいてくださいね。
私はたった一度の自分の人生を思いっきり楽しんで生きて行くだけです。
やっとそんなことが可能な世の中になってきたと思います。
自分に制限をかけることができるのは、究極的には自分だけです。
そして、私たちが生きているのは過去でも未来でもなく、いまこの瞬間です。
それがわかれば、人はもっと自由に生きられます。
「自由」
私が子供の頃から一番好きだった言葉です。
何ごとも恐れず、一緒に自由を楽しみたい人は連絡くださ(^-^)ノ
ではまた。
激動と感謝の一年
実家の居間で父とビールを飲みながら、このブログを書いています。
2011年は、本当にいろんなことがあった1年でしたが、あと5時間あまりとなりました。
日本で世界で大きく時代が動いた1年でした。
個人的にも様々なことがありました。まさに激動の1年でした。
一番大きな変化は結婚してパートナーができたことですが、それ以外にも多くの出来事が内面的にもありました。
正直に言えば、楽しいことよりも苦しいことの方が圧倒的に多かったと思います。
その詳細についてのほとんどは、ブログには書けないことばかりです(笑)
でも、最後にはとても素晴らしい気持ちで1年を締めくくれそうです。
苦しみ抜いた末にたどり着いた境地があったからです。
そして、今は一人ではなく、素晴らしいパートナーもいます。
来年はどうやら今年以上に時代が大きく動きそうですね。
でも、何があっても今よりもっと幸せになって、そして多く人を幸せにすることができると思っています。
その絶対的な確信を、今日一日、自分と本気で向き合うことでさらに確信することができました。
今は何だかワクワクしています。
それでは、今年1年お世話になった皆さま、ありがとうございました。
会ったことはないかも知れないけれど、いつもこのブログを読んでくれている皆さま、ありがとうござました。
そして、家族に心からの感謝を送ります。
大丈夫、みんな幸せになれる時代が来る。
そう確信して感謝の気持ちと共に激動の2011年を締めくくりたいと思います。
すべての答えは自分の中にある 前編
昨日で年内の公式な夜の行事が終了し、明日から三連休です。
会社は休みですが、三連休中もちょくちょく出社して溜まっていた細かい仕事をこなす予定です。
今夜は妻と一緒に二人忘年会をする予定で、先輩が経営する居酒屋に来ています。
でも、彼女はまだ仕事で遅くなりそうなので、先輩とカウンター越しに時おり雑談をしながら一人で飲みながらこのブログを書いています。
以前から頭では理解していたけれど、最近心でわかり始めたことがあります。
ここまで書いて妻が到着したので、この続きは後日(笑)
涙のわけ
その方が癌を患っていることを聞いたのは今年の夏、お盆前のこと。
サラリーマン時代から陰に陽に私を応援してきてくれたとても大切な方。
夏休みに入る前に、お中元を持ってご挨拶に伺うと、その方はおもむろに語り始めた。
自分の体に腫瘍が見つかったこと。手術してみないとどこまで転移しているかわからないこと。盆明けに入院すること。そのことは家族と会社の一部の幹部しか知らないこと。そして、入院先は誰にも教えず遠方の病院で治療すること。
その話を聞いたとき、私は返す言葉が見当たらなかった。
「入院する前におまえの顔を見れてよかったよ。入院先は家族以外は誰にも教えないから、お見舞いもいらないよ」
その人は笑顔でそう言った。あまりにも突然のことで、私は言葉を失った。
誇り高い人だった。入院先を知らせないのは、弱っている自分を誰かに見せることが嫌だったのだと思う。
それから3ヶ月以上の歳月が流れ、気になって仕方がなかった私は、時折その方が経営する会社に伺い、側近の方に状況を聞いてみた。
しかし入ってくる情報は、手術の日程が決まったことくらいで、側近の方もお見舞いに行くことは許されていなかったことくらいしか、情報は手に入らなかった。
そして12月がきてお歳暮の季節になった。相変わらずその方の術後の状況に関する情報は入っていなかった。
どこから漏れたのか入院しているらしいという噂は経済界では広まっていたようで、お歳暮を届けにいった先でも、私がその方と親しいことを知っている人は、私に何か聞いていないかと聞きてくるものの、私は返す言葉がなく話を濁していた。
どうしたらいいかもわからないまま、先日、年末の挨拶もかねてその方が経営する会社の幹部にご挨拶に伺うと
「おぅ!社長に会いに来たのか?」
と幹部の方に言われた。私は、目が点になったまま「え!!社長いるんですか?」と返答すると
「あぁ、社長室にいるよ。顔を出していきな」
と言われて、社長室に通された。
ノックをして扉を開けると、奥のデスクにその方はゆったりと座っていた。
私の顔を見ると「久しぶりだな」とだけ言って、手招きをした。
その瞬間、あまりのうれしさに私の頬に涙が溢れ出した。私は言葉を発することもできずに、ただうずくまるようにして涙を流した。
ほんとうに嬉しかった。
気持ちが落ち着いてから、その方の隣の椅子に座り、しばらく2人で話しをした。手術のこと、家族のこと、会社経営のこと、これからのまちのあり方について etc..
そして私は、自分が11月11日に入籍したことをやっと本人に報告することができた。
.その方は、心からそれを喜んでくれた。そして他の客人が来たので、近いうちにまた顔を出すことを約束してその場をはなれた。
去年の3月に、私は生死の境を彷徨い、奇跡的に命をいただいた。
意識を失い、あの世の世界を垣間見てきたことの詳細については、誰にも話したことがない。
ただひとつ言えることは、自分が「死」というものに対する恐れが一切なくなったということだ。
なぜなら、肉体が死んでも、なお魂は生きているということが体験としてわかったからだ。
臨死体験の後、私は頑張って以前の自分に戻ろうともがいてきた。
でも、それは疲れるだけだった。
やはり以前の自分に戻ることなどできないし、戻る必要もない。
自分の魂の価値は何も変わらないという真実だけがあればいい。
最近、そう割り切って考えられるようになった。
それでもなぜか、親しい人の死への直面には動揺してしまった自分がいた。
やっぱり今の僕は肉体をもった人間なんだなって思った(笑)
でも、今回の件は本当に嬉しかった。神様ありがとう。
魂は永遠のなかにある。
でも、今の肉体ではたった一度の短い人生なんだから、おもいっきり楽しんで生きようぜ (^ ^)ノ
コミュニケーション
コミュニケーションって難しいですね。
それぞれの立場があり、それぞれの価値観や利害関係があり、その意見をぶつけ合うだけでは物事は解決しない。
そして、何が正しくて、何が間違っているのかなんて、事が起こってみなければ最終的にはわからない。
そもそも何をもって正しいとするのかさえ難しい。
今日の正義が明日の悪になることだっていくらでもあるし、今日の英雄がやがて犯罪者として糾弾されるなんてことは歴史上にはいくらでもあります。
それぞれがベストだと思うことを話すとき、どれだけ大きな視野から見ているのか、どこまでの未来を見て考えているのかによって、その内容は大きく変わってきます。
良いコミュニケーションをするためには、まずは相手の言い分を自分の主観をはさまずに聞いてみるという姿勢をお互いに持つ必要があって、相手の意見を聞きながら「どうやって反論するか、どうやって自分の正しさを主張するか」ばかり考えているようでは、良いコミュニケーションをすることはできません。
しかし私たちは人生経験を積み大人になるにつれて、自分の価値観が凝り固まっていく。それをどうほぐし、ぶつかり合いではなく相乗効果によって、よりベストな結論を見いだすことができるか。
まずは相手を認め、そのうえで自分の考えを話すこと、最初から反論するのではなく、客観的に一人の人間として向き合ってみることが大切です。
そういうコミュニケーションができるってとても素晴らしいことですよね。
明治維新で歴史を変えた志士たちは、夜な夜な密会を積み重ね、大きなうねりを創りあげていきました。
彼らはぶつかり合い、認め合い、手を繋ぎ、時には斬り合い、そうやって歴史を大きく変えるコミュニケーションをしていきました。
大阪市長になった橋下徹氏は、どんな思いで「大阪維新の会」という名前をつけたのでしょうか。
昨夜は、とある街のとある居酒屋の奥座敷の密会で、そんなことを考えていました。
インターネットは平和な世界をつくるために歴史に登場した
私がインターネットに出会ったのは今から約17年前。Windows95が世に出回りはじめ、地方でも一部でインターネット接続ができるようになった頃の話です。
当時から考えれば今のような定額ブロードバンド通信なんて夢のような話で、アナログ電話回線の涙が出るほど遅いスピードでネットにアクセスしていました。
しかも1分いくらの従量課金制だったので、深夜のテレホーダイの時間帯以外に長時間アクセスすると、まるでダイヤルQ2(死語?)のような電話料金の請求がきた時代です。
私は当時、夢を追いかけることに挫折したあげく故郷にもどり、地元の企業で働きはじめた頃でした。そして、これからはインターネットの時代になるような予感がしていて、当時約30万円もしたIBMの「ThinkPad 535」をローンで買いました。その頃はまだフロッピーが主流でディスクドライブは外付けでした。
キーボード入力は、小説らしきものを書いていた頃に使っていたワープロで基本操作だけはわかっていたけれど、パソコンに関する知識はチンプンカンプンだったので、詳しい友人に手引きをしてもらいながら、なんとか初期設定をして使い始めました。
最初の頃は、何が面白いかもよくわからず、他の20代の男の子と同様にエッチな画像を見て喜んでいた程度でした(笑)
やがて、ネットの世界が分かり始めるにつれ、これはとんでもないことなんじゃないか。インターネットはこれから世界を変えていくことになるんじゃないかと考えるようになっていきました。
ネットに触れ始めてから数年後の1999年、私は自分で初めてホームページを作成しました。そのホームページの名前は「INTERNET DREAM NETWORK」
インターネットの可能性について、著名で自分の想いを綴ったものでした。その頃は、ネットを悪用した犯罪などが注目され、テレビなどの既存メディアでネットが叩かれてることもよく見かけました。
でも私は、「インターネットは平和な世界をつくるために歴史に登場した」と信じていたし、それは今でも変わりません。
夢物語かもしれないけれど「世界統一言語」みたいなものがあって、世界中のすべての国がそれを第2言語として義務教育に組み入れられている。そして、世界中の子供たちが幼いころからネットを介して国境を越えたコミュニケーションをすることができなたら、彼らが大人になるころには、争いのない平和な世界が訪れるのではないかと思ったのです。
統一言語が難しいならば、超高性能な「翻訳プログラム」が開発されれば、それは可能だ。そんなことをINTERNET DREAM NETWORKのWEBサイトに綴り、「まぐまぐ」を利用してメールマガジンで情報を発信し始めました。
するとまたたくまに読者数が増え、日本中はおろか海外からもメンバーが集まって、掲示板やチャットをつかって意見交換をするようになったのです。その中には会社経営者から、海外に留学中の学生や警察庁のネット犯罪担当者までさまざまな分野の人間がいました。今でいう「オフ会ミーティング」みたいなことも東京などで定期的にやっていました。
INTERNET DREAM NETWORKのサイトは2000年に私が起業をしたと同時にクローズしました。しかし、その当時の何人かの主要メンバーとは今も深い交流があり、一緒に仕事をしたり酒を飲んだりしています。
あれから約11年の歳月が流れました。私は未だに小さな会社の経営者のままですが、ネット業界は大きく変貌し、今では社会のあらゆる場所にインターネットテクノロジーが導入され、経済はネットなしではスムーズにまわらないほどの状況です。
そして、近年大きく世界中で利用者が急増している「Facebook」や「Twitter」「Google+」などのSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)は、国境の垣根を越えて世界中を繋げています。
東日本大震災の時も、インターネットをベースにした通信網、そしてメールやSNSが迅速に被災地の情報を世界に伝え、支援を行うために大きな役割を果たしたことは周知のとおりです。
世界中で国々で、一般市民による人権に関する革命が起きているのも、インターネットの普及によって独裁政権などが自分たちの都合の良い「情報統制」が難しくなったためです。そして、国民一人ひとりの情報交換がネットによって安価でスピーディーになったことが大きな要因です。
本当の意味で世界が平和でひとつになり「地球村」ができるための最後の壁は「宗教問題」と「エネルギー問題」です。それを解決するキーワードは「ネットワーク」と「アセンション」
どうやら夢見ていた時代が訪れる可能性がありそうです。
それについてもいろんな話がありますが、あまりにも刺激的なので今日はこれぐらいにしておきます(^^)
このブログは福島へ移動する車中の後部座席で書いています。東北自動車が工事の影響で渋滞しています。
どうやら会議には間に合わなそう。。。(^^;)
シンプル
シンプルに生きている人を見るととても美しいと思う。
過去に囚われることなく、未来に不安を抱くでもなく、今この瞬間にやるべきことをやって生きている。
過去は変えられないことを本当の意味で知っていて、自分の人生を信じているから、今にくつろぎ今をシンプルに生きることができる。
私もそういう生き方をしたいと思っているけれど、それは簡単なようでとても難しいこと。
人間にはエゴがというものがあって、それは肉体をもって生きるためには必要なものだけれど、エゴは本当の自分の姿、ありのままの自分の姿ではない。
エゴを完全に手放し、あるがままに今この瞬間を生きるとき、人は真の幸せと自由を手に入れることができのだと思う。
この国に古来からある禅という文化は、そこに至るための修行を体系化したものである。
禅はその発祥である日本よりも、海外の方が支持され広く受け入れられている。その分野においては日本はとても尊敬されている。
マクロビオティックという食生活法・食事療法についても、日本人が考案したにもかかわらず大きく普及しているのは欧米だ。
近年、全国各地にヨガ教室ができている。インドの文化であるヨガは素晴らしいものだし、私も生活に取り入れていますが、健康や美容・そして精神衛生のために日本人が生み出した素晴らしい文化を、私たちはもっと見直すべきなのかもしれませんね。
崩れゆく故郷の生態系
私は岩手県の小さな田舎町で生まれ育った。小学校中学年くらいまではファミコンなど無く、遊ぶといえば屋外で遊ぶのが常識だった。
テレビゲームが浸透してきてからも、遊ぶのはいつだって屋外がメインだったし、大自然と戯れ、生物とふれあうのが大好きだった。
その頃は夏に泳ぐといえば学校のプールや市営プールにいくのが常識だったけれど、私はいつも仲の良い悪友と母の実家のそばを流れる川で遊んでいた。
その川には沢山の魚がいて網やヤスや時には手づかみで魚をつかまえて遊んだ。そして、その魚を河原で焼いて食べたりするような子供だった。
田んぼの水路には、ザリガニやナマズ・ドジョウ・カエル・オタマジャクシ・タニシ・ヤゴなどの生物がいて、ザリガニの巣に手先をつっこみハサミで怪我をしないように指先で格闘しながらザリガニ取るのは最高に楽しかった。
夏は山にいけば、トンボや蝉が溢れるように飛び交っていて、オニヤンマやギンヤンマを捕まえるのに夢中になった。
母の実家に泊まりに行ったときには、田んぼの水路のまわりを無数に飛び交うホタルを捕まえ、大好きだった曾おばあちゃんと一緒にホタルの明かりを見つめながら眠りについた。
そして何よりも僕らの夏のヒーローだったのはクワガタやカブトムシ。もちろん当時はホームセンターやペットショップなんかで売ってはいなかったし、自分で獲りにでかけた。
秋にはイナゴを大量に捕まえて、近所の商店に売ってお小遣い稼ぎをした。カマキリと格闘して指を切ったりしても楽しくてしかたがなかった。
冬は毎日のように近所の山でスキーをした。スキー場なんて近所になかったから、ガキどもが集まって山の斜面を使っての天然スキー場を作った。プラスチック製のミニスキーで滑り降りては歩いて上り、また滑るということを何10回やっても疲れなかったし、大きなジャンプ台を作っては全身打撲になるまでジャンプを競い合った。時には家の裏にかまくらを作った。苦労して雪を積み上げて作り上げたかまくらの穴に座っているだけで幸せだった。
昭和50年代の田舎は、そうやって遊ぶのがあたり前だった最終世代なのかもしれない。やがて多くの同級生の男の子たちはテレビゲームに霧中になり、外で遊ぶことが減っていったし、私もゲームをすることもあったけど、青空の下で遊んでいる方が好きだった。
そして現在。
私は東京という大都会と岩手の2住生活をしている。岩手にいる時は、週末に釣りやキャンプなどをして遊ぶのがライフワークになっている。かたちは変わったけれども、自然と戯れて遊ぶことが好きなのは今でも変わっていない。
しかし、取り巻く自然環境・生態系には大きな変化が起きている。
私が遊んでいた川からはオイカワやメダカは完全に姿を消し、今ではブラックバスが泳いでいる。危険だからと言って子供たちは好奇心があっても保護者なしでは川には近づけない。
田んぼの水路はコンクリート化され、イナゴやカマキリやトンボ・その他あらゆる生物の数が減り、空を埋めるように飛んでいた蛍もめったに見かけることがない。
田んぼをとりまく水路は、この国の地方において豊かな生態系を育む大切な一翼を長い間担ってきた。かつては田んぼに水をひくために村と村で争いがあったそうだが、今では整備されて水の量に困ることはほとんど無い。
人間が文明生活を始める以前から何億年も存在してきた自然環境と、日本の田園は共存してきたはずなのに、コンクリート化によってその生態系のバランスが崩れ、生物が激減していることがとても残念でならない。
またこの国の森林は、かつては広葉樹が主体だったのに、木は伐採され森は壊され、代わりに建築資材になる針葉樹の杉が植えられました。やがて外国製の安い建築資材の輸入が拡大し、採算があわなくなったために放置されたままの杉がこの国の山や森には溢れかえっています。その結果、杉花粉の数が年々増加し、今では日本人の生活に大きな悪影響を及ぼしています。
杉の木の根は、土をしっかりと握りしめることができないので、雨が降ると山の土は土砂となって川に流れ込み、その土砂を砂防堰堤によって塞ぎ、それが埋まるとまた次の砂防堰堤をつくるという終わりのない悪循環を繰り返しています。山と海は繋がっています。山の荒廃はやがて海にも伝わり、生態系はますます破壊されていきます。
さらには地球温暖化によって年々気温が上昇し、たった40年弱の私の人生だけでも、積雪量が激減しているという現実は、はたしてこの先どうなっていくのでしょうか。温暖化に関してはもはやこの一国の問題ではなく、世界的な全地球的な問題です。
私は、学者でありませんが、ちょっと目を凝らして見ただけでも、この世界の自然環境は絶望的な状況に向かっているようです。100年後、200年後そして22世紀の子供たちに、私たちが破壊しつくした自然を残すことはとても悔やまれます。
自分たちが住みやすいまちをつくることも大切ですが、もともと自然環境や生態系をこれ以上破壊してまで、自分たちの便利さや欲望を追求していくことには限界があるということに、そろそろ気がつき動きださなければならない時期にさしかかっています。
地球資源との共存共栄に向かう流れは、一部の先進国ではすでに大きなムーブメントになってきています。これはとても喜ばしいことです。しかしながら、我が国はこれだけの自然に恵まれながらも、その大切さをしっかりと教える教育体制はなく、政府も環境保護に本腰をいれているとは言えません。
東日本大震災によって、自然の絶大なる力の前では、私たちは無力であるということを身をもって知らされました。世界で唯一の原子爆弾の被爆国であるこの国が、また原子力の力によって苦しめられています。
それでも、私はこの国に希望を持ちたい。最近、東京で暮らす若者たちの生態系が変わってきました。かつては世界最先端の科学文明と刹那的な欲望の充足を謳歌していた彼らが、週末には山へ行って自然にふれあったり、郊外に共同で畑を借り有機栽培するような人たちが増えています。自分のマンションの小さなベランダには植物や野菜を植え、食べるものに関しても、うまいとか値段が安いという基準だけで外国産を選ぶのではなく、どこでどのように生産されたのか、安全性はどうなのかという基準を重視するように変化してきています。
年間3万人以上の自殺者がいて、年々鬱病が増えているこの国の中枢にある東京という街。コンクリートと最先端のトレンドに囲まれて暮らしてきた彼らだからこそ、本当に大切なものに気がつき、変わりはじめたのかもしれません。
私は地方での生活に片足をつっこんでいる人間として、都心と地方の格差はこんなところにもあるのかと実感している。決して、地方の人間をバカにするつもりはないし、私は田舎も大好きです。
今の時代、インターネットによって情報はほぼ均一に与えられています。それをキャッチしに行くのは本人次第。情報格差による都会と地方の認識の差はほぼ無くなりつつあります。
「やらないのではなく、知らない」その根底にあるのはやはり教育。
子供たちへの教育だけではなく、その子供を教育する親に対する「大人が自分を磨く教育」が自分を含め必要なのだと思っています。



2012/03/24 | 